「月は二度、涙を流す」そのN


第六章
7 七日目

 屋敷の門が開き、一台の車が入ってくる。車庫の前で車は止まり、中から昇が姿を現した。少しやつれた頬に生えた不精髭が、彼を少し老けて見せている。
 昇は蒼く美しい空を見上げながら、大きなため息をついた。太陽の光が眩しい。スーツを着ていると、少しシャツが汗ばむくらい陽気な天気だ。小鳥の影が時折太陽の光に黒い穴を作った。
 昇は車のトランクに積んだカバンを手に取ると、玄関の方へ歩きだした。玄関を開けるところを想像すると、笑顔で待つ光と優香の姿が思い浮かぶ。前の妻が死んでから、極力光や望の傍から離れないと決めていた。しかし、その結果大量の仕事を残す羽目になり、今回の一週間にも及ぶ仕事をする事になってしまった。望は相変わらず無愛想な顔で迎えるだろう。光は子犬のように抱きついてくるだろう。おかえりなさい、と優香は慎ましい笑顔で言うだろう。明日から三日間の連休をとった。この休みを使って四人でピクニックに行こう。そう、昇は決めていた。
 玄関がすぐ前に来ていた。
「ただいま。今、帰ったよ」
 扉を開け、大きな声で言う。しかし、返事は無く、自分の声が屋敷内で反響した。昇は眉をしかめる。いつもなら光か優香が玄関で待ってくれているのが普通なのに、今日は姿を見せようともしない。何の連絡も無しにいきなり帰ってきたのが、よくなかったのかな、と独り言のように思いながら、昇はゆっくりと屋敷の中へ入っていった。
 全く音がしなかった。まるで何年も前から誰も住んでいなかったような、そんな清涼な空気を感じた。廊下に落ちる黄色い日の光が、微かに舞い上がる埃を照らしている。
 昇は耳鳴りがする程静かな廊下を歩いた。静寂は時折窓の外で鳴く鳥の声で途切れたが、鳥の声が無くなると再び厚い静寂が立ち篭めた。その中で唯一響く昇の靴音。
 昇は想像していたものとあまりに違う光景に、言葉を失っていた。光や優香はどこに行ったのだろう。恵美や真一郎は? 望は? そんな疑問を増幅させるように、静寂はどこまでも続く。昇の足は自分の部屋へと向かった。靴が廊下を敷き詰める絨毯を踏む音が、不気味に廊下の隅々にまで走った。
 しかし、その靴音も止まった。昇は息を呑み込み、その光景を見た。自分の部屋の中で恵美が倒れていた。両目を始め、体中至る所に穴が空き、そこから漏れ出た血が黒く硬く固まっていた。傷口近くの肉は少し腐食し始めている。昇はカバンを落として、恵美に駆け寄った。声をかける前に体を揺さ振ってみる。その揺れに、生は無かった。髪の毛だけが生きていた頃と同じようにサラサラとなびく。体中が粘土のように固まり、そして鼻を突く異臭を放っていた。
 そのあまりにも強烈な匂いに、思わず昇は顔を背けてしまう。しかし、その背けた先にも信じられない光景があった。そこには優香が同じように体中に穴を空けて絶命していた。恵美と同じように体が強ばり、物言わなかった。安らかな顔をしているが、その瞳からは涙の跡が首筋まで続いている。
 優香の太股には見た事も無い少年が倒れていた。こめかみにポッカリと穴が空き、そこから血が漏れている。その少年も息絶えていた。優香の固まった手が、少年の髪の毛を撫でていた。撫でている途中に絶命したのだろう、指に髪の毛が絡んだままになっていた。「‥‥何なんだ? これは」
 震える喉から出た言葉は、殆ど言葉という形をなしていなかった。昇はすぐに携帯電話で警察を呼ぼうとした。しかし、その前に光と望の安否が気にかかった。恵美の死体をゆっくりと絨毯の上に戻し、その場を後にする。本当はすぐにでも弔ってやりたかったが、その前にどうしても光と望の生死を確かめたかった。
 一体何が起こったというのだろう。強盗にでも入られたのだろうか? それにしても残酷過ぎる。昇は二階へ続く階段を上りながら、腹の奥から込み上げてくる吐き気を押さえた。何が何だか全く理解出来なかった。
 光の部屋の前に立つ。中で何か話し声のようなものが聞こえた。その声は間違いなく光の声だった。昇は息をするのも忘れて扉を開け放った。
 光は赤いドレスを来て、舞夜とベッドの上で戯れ合っていた。舞夜はバスローブを着ていて、首には光の手が絡み付いている。その感触がくすぐったいのだろうか、舞夜は声を出さずに笑っている。
「光!」
 昇は枯れる程の大声で叫んだ。光は久しぶりに見る父を見て、にっこりと微笑んだ。光の視線を追うように、舞夜の瞳が昇を見つめた。その瞳は光のとは異なり、恐ろしい程の憎しみに満ちていた。その視線が、昇の視線と重なる。昇はどう対応していいのか分からず、慌てて視線を光に戻す。
 しかし光を見ても、昇の顔は少しも笑いはしなかった。昇の目の中には光と同時に、酷く腐乱した望の姿が飛び込んでいた。顔と手からおびただしい深紅の血が溢れ固まっている。血が絨毯の上に広がり、薔薇のような形になっている。
「おかえりなさい、お父さま」
 何事も無いかのように、光は言う。昇は擦れた声で囁く。囁く事しか出来なかった。
「‥‥光。一体、何が起こったんだ?」
「ねえ、お父さま。私、この子と一緒に暮らしたいの。いいかしら?」
 光は昇の問いには答えず、そう告げた。昇はいつもの様子と違う我が子を見て、膝と奥歯をガクガクと鳴らす。
「何があったって言うんだ? 光。答えてくれ」
 自分の問いに答えない父の姿を見て光は小さく肩をすくめ、ため息をついた。そして、舞夜の方を見る。舞夜は光を見上げ、バスローブの腰に付いている拳銃を光に手渡した。光はまるで拳銃を渡された事が面白い事かのように微かに笑い、舞夜の額に軽い口付けをする。そして、軽やかに腕を挙げると銃口を昇に向けた。
 もう、一滴も涙も流さなかった。ただ、フランス人形のように笑っていた。それを見つめる舞夜は、この屋敷に来てから最高の微笑みを浮かべた。
 光は言った。
「‥‥お父さま。駄目って言わないでね。言ったら、殺すから」
                                                          終わり


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